お金があれば幸せか?
はじめに にも書いたけれど、僕は事業で失敗してほとんどすべてのものを失ったことがある。
日々の食費も切り詰めなければならない状態が続いて、1斤100円もしないような食パンを買うのすらためらうような生活をしていた。
僕はそのころ、お金持ちになれれば幸せだと思っていた。
お金持ちになれば、何でも好きなことができるし、何でも買いたいものが買える。100円の食パンを何もつけずに毎日ちまちま食べる生活から解放される。幸せじゃないか、と僕は思っていた。
それから数年後、僕はお金持ちとは言えないけれど、多少お金を稼ぐようになった。
じゃあそれで幸せになったかといえば、そう単純な話でもない。
結論から言うと、僕はある程度稼ぐまではお金があった方が幸せだと感じた。だけど、そこからは僕はお金に幸せを見出すことができなくなった。
お金を稼げれば幸せか?
僕は少しお金を稼ぐようになってから確かに幸せを感じていた。
少しというのは、食費とネットカフェ代とスマホ代が出せる程度の金額だ。(いずれ記事にしようと思うけれど、僕は家賃を払えず賃貸マンションを出て行った。その後しばらく、ネットカフェで寝泊まりする生活を続けていた)。
僕はそれまでその日の食事すら満足にとれない状態が続いていたからだろう。
派遣だけれど再就職先が決まって、もう食費とか電車代とかを心配しなくてよくなったとわかった瞬間、僕は嬉しさのあまり、マクドナルドに立ち寄ってコーヒーとアップルパイを食べた。
このとき、僕はすごく幸せだった。
(このころ、僕にとってはマクドナルドですら贅沢な店で、めったに行くような場所ではなかったのだ。)
そして、少しのお金を稼ぐようになって、僕は精神的に安定した。
収入があるという安心感に満たされたのだ。
それは、身体と精神ををぎゅうぎゅうに縛り付けていた縄がとれたような感覚だった。
経済的な不安が取り除かれると、こんなに気持ちが楽になるのかと驚いた。
(余談だけど、僕はお金を手にしてコンビニでカップ麵を久しぶりに買ったときの嬉しさが忘れられない。わかる人にはわかると思うけれど、コンビニのプライベートブランドですら1個130円もするカップ麺は袋麺とか他の食材に比べて割高だから、僕は長い間食べるのを我慢していたのだ。)
それから数か月後、僕の派遣時給は劇的に上がった。
自分で言うのもなんだけど、起業を経験しているし、起業前も割と花形の職種で激務をこなしていたから、普通の従業員に比べたらできる仕事の範囲が広いし、それなりに成果も出せていた。
それを雇用側が評価してくれたのだ。
じゃあ、もう少し稼ぐようになったから、僕はもっと幸せになったかといえば、別にそうはならなかった。
付け加えて言うと、僕は少ない稼ぎを投資に回している。そこからも多少の収入があるから、おそらく平均的なサラリーマンよりも少し余裕がある生活をしている。
でも、稼ぎに比例して幸福度も上がることはなかった。
世間でよく言われていることだけれど、収入が増えても僕より収入が多い人なんてたくさんいるから、いつまでたっても「どうして自分はこれしか稼げないのか」と思ってしまうのだ。
だから、僕は収入が増えても幸せを感じなかった。
それより、自分の収入が少ないということに不満、怒り、焦り、恐怖、絶望を感じていた。
実際には収入が増えているのに、だ。
ちょっと誇張して言うと、収入が増えるにつれて僕自身はそういうネガティブな感情を抱くことが増えていて、逆にどんどん不幸でみじめな感覚を覚えていった。
収入が増えれば幸せ、お金持ちになれば幸せ、ということは無かったのだ。
それでも僕は幸せになった
僕は引き寄せの法則を実践していたから、こういうネガティブな思いは極力排除したかった。
(→ 引き寄せの法則については 僕がおすすめする2冊の本 (その1) - 『ザ・シークレット』ロンダ・バーン(著)を読もう)
そこでぼくは他の事実に目を向けてみることにした。
たとえば、すでにあるもの、すでにあることに意識を向けてみた。
例を挙げると、
夜布団の中で寝られること、好きな物を食べられること(フライドポテトとかラーメンとかそういうジャンキーな安いものばかりだけれど)、両親がいること、パートナーがいること・・・、
そんな事に感謝してみることにした。
そうすると、あんなに感じていた不満、焦り、欠乏感などのネガティブな感情ががなくなった。
その代わり、感謝とか喜びといったポジティブな感情がわいてくるようになった。
面白い変化はそれからだ。
僕は本当は何を欲しているのか、自分自身でちゃんと認識できるようになったのだろう。
欲しい物や、やりたいことが大きく変わった。
今の自分なら多少高くても買えると気が付いたとたんに、いわゆる高級品に興味がなくなった。
たとえば、僕は高級なワインに憧れを感じていたし、それを呑めるようになったらかっこいい、それを飲むような日常を送れたら幸せだとおもっていた。
僕はいま、仕事の付き合いで数万のワインを飲むようになった。
でも僕は正直高級なワインをそんなに飲みたいとは思わないし(経済的な問題ではない)、飲んでも幸せだとはあまり感じない。
生産者には敬意を感じるけれど、そのワインが好きか嫌いかと聞かれればよくわからないのだ。
一方で、僕は150円の缶チューハイが好きだ。どちらかを選べる状況なら、僕は150円の缶チューハイを選ぶ。150円の缶チューハイを飲んでいる時僕の気分は最高だし、ちょっと大げさに言えば僕は幸せだ。
僕は高級ワインを飲むことに憧れていたし、高級ワインを飲めれば幸せだと漠然と考えていた。だけどお金を稼ぐようになって高級ワインを飲むようになってわかった。高級ワインが僕を幸せにすることは無かった。
似たような気持ちの変化が、僕にはいろいろ起きた。
僕はお金がないとき、高級な時計や高級な車が欲しかったし、それらを手に入れられたら幸せだと思っていた。僕はようやく、ちょっと頑張ればそれらを買うことができるようになったけれど、でもあまり欲しくなくなってしまった。
そういう物を持っていなくても十分幸せだから、特に欲しいと思わないのだ。
じゃあ、どういう物に僕は幸せを感じるようになったのかというと、
たとえばスーパーで安い食材を買って自分好みにアレンジしたり、高い輸入食材が必要なしゃれた料理を安い食材で代替してつくってそこそこまあまあなものをつくることが楽しくて、喜びを感じるよう になった。
あるいは、ホームセンターで資材を仕入れてDIYで自宅をオリジナルな空間にかえていくことが楽しくて、喜びを感じるようになった。
それから、友達、親、恋人なんかと会って、たわいない会話をすることが楽しくて、喜びを感じるようになった。どこで会うか、場所にはこだわらない。わざわざ高級レストランなんかに行かないで、カフェや自宅でチープに過ごすので充分だ。一緒に時を過ごせるだけで幸せなのだ。
結局、自分が幸せだと思ったら幸せなのだ
僕はお金に困っていたころ、お金持ちになれば幸せだと思っていた。
お金持ちになればやりたいことができるし、買いたいものが買える。海外の高級ホテルを泊まり歩く旅行もできるし、高級な時計や車を買うことができる。そういう生活ができたら幸せだと思ったし、そういう生活を目指している段階の自分はまだ十分な幸せを得ていないと考えていた。
だけど、幸せはなにも贅沢な遊びや高級品の中にあるものではない。
幸せは主観的なものだから、現在の状況がどうであれ、幸せだと思えば幸せだし、幸せじゃないと思えば幸せじゃない。
お金があってもなくても、幸せかどうかは変わらないのだ。
もちろん、これは生活に必要な最低限のお金を稼いだらの話だ。
何かの本で読んだけれど、世帯年収700万までは収入が増えれば幸福度も上がるという。
世帯年収ということだから、自分一人の稼ぎではなくて、一緒に暮らしている家族の収入、例えば共働きなら夫婦合算の収入だし、年金暮らしの両親と同居していればその年金額も収入にはいる。
700万円という数字は、日常生活に不自由しない程度に必要なものを買えるという水準らしい。
もちろん、家族構成によっても違うし、個人差もあるだろうから、一概に700万円までとは言い切れない。
ただ、いずれにせよ、収入の伸びが幸福度と比例するのは限界があって、日常生活に必要なものを手にいれられる水準になったら、幸福を感じるかどうかは収入の多寡と関係が無くなるということだ。
ちなみに、僕は一人暮らしだから、300万円未満でこの天井に遭遇した。この水準は他の人に比べて低い方だと思う。その日の食事にすら困るほどの貧乏を経験したから、このくらいのお金で満足できるのかもしれない。
まとめ
僕はたくさん稼げれば幸せだと思っていた。
お金持ちになれば幸せになれると思っていた。
だけど、収入がいくら増えても、自分より収入が多い人なんてたくさんいる。どんなに稼いでも、「自分はまだ稼げていない」と思ってしまう。だから、たくさん稼げれば幸せだとか、お金持ちになれば幸せと思っていると、いつまでたっても幸せになれない。いつも周りに自分より稼いでいる人がいるから比べてしまうだ。
僕の場合も、ある程度までは収入が増えたら確かに幸福度が高くなった。
でも、ある一定の水準まで収入が増えたら、収入が増えたからといってもっと幸せになるということがなくなった。
幸せは主観的なものだから、自分がどんな状況に置かれていても幸せだと思えば幸せだし、幸せじゃないと思えば幸せじゃない。
お金を稼げれば幸せというわけではないのだ。