もうダメだと思ったときに読むブログ

起業して失敗した僕は立ち直った

なぜ人は自殺をしようとする人を思いとどまらせようとするのか?

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はじめに

このページにも書いた通り、僕は事業に失敗して、精神を病んでしまったことがある。

「自殺したい」という思いが頭から離れず、毎日今にも走っている車に突っ込んでいきそうな状態だった。

でも、こんな状態の時ですら、僕は「自殺したい」とか「死にたい」という相談を誰にもできなかった。

「自殺」したいと思っていることに僕自身後ろめたさを感じていたし、なにより、「自殺なんかしちゃダメだよ」と人から返されるのが煩わしかったからだ。

 

「なぜ、自殺はダメなのか?」

 

僕は気になってずっとこのこと考えていた。

 

社会的にタブーな自殺

多くの人が薄々感じていると思うけれど、自殺はどこか社会的タブーになっている部分がある。

上で書いた通り僕自身も経験したけれど、いくら自殺したいと考えていても、家族、同僚、友人等に、「自殺したい」という話を積極的にできる人は多くないだろう。

なんとなく、自殺はしてはいけない気がするし、そういった話題を周囲の人にするのは気が引けるのだ。

GoogleやYahooなどの検索エンジンでは、「自殺」というキーワードがセンシティブな扱いになっている。実際に検索してみるとわかると思うけれど、GoogleやYahooは、自殺を引き起こす可能性があるサイトを検索上位に表示しない。社会的に不適切とみなされるコンテンツが上位に表示されないよう、「自殺」というキーワードをコントロールしているのだ。

こんな例もある。

覚えている人もいると思うけれど、1993年、太田出版から『完全自殺マニュアル』という本が出版された。この本は「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」(Wikipedia)という趣旨で発刊されたもので、自殺を推奨するものではなかったけれど、発売後、ある自治体から有害図書指定されてしまった。自殺を誘発する可能性があるとみなされたためだ。この本は何とか販売を継続できたものの、以来、ビニールでパックされ、立ち読みができない状態で販売されることになった。

また、1933年にハンガリーで発表された「暗い日曜日」という音楽をご存じだろうか。別名「自殺ソング」と呼ばれるようになった曲だ。この曲が発表された後、この曲を聴いた人が世界中で相次いで自殺した。この曲は、複数の国で放送禁止となった。

僕たちが暮らしているこの社会では、自殺を引き起こす可能性があるとみなされたものは躊躇なく排除される。

誰かに教えられたわけじゃないけれど、自殺者を出してはいけないという考えが広く共有されている。

たとえ、どこの誰か知らない人であっても、自殺をしたいと言えばほとんどの人が自殺をやめるよう説得する。

それはなぜか?

 

人は見えないところでつながっている

「なぜ自殺はダメなのか」という話をすると、「倫理的に許されないから」と答える人が必ずいる。それはそれで間違えていないのかもしれないけれど、ここでは、倫理的な話は触れないでおこうと思う。正直に言うと、「倫理的に自殺はよくない」といったって、突き詰めて考えると、なんでよくないのかわからない。「倫理」って一体なに?

なので、ここではちょっとスピリチュアルな面から話をしたいと思う。

(こういう話を嫌がる人もいるけれど、少なくとも僕は、こっち考え方の方がずっとしっくりくる。)

 

僕たちは、見えない部分でつながっている

このブログで何度も紹介しているロンダ・バーンの『ザ・シークレット』を読んだ人なら、本の中にこんなフレーズが出てくるのを覚えているかもしれない。

“僕たちは見えない部分でつながっている。そのつながりが見えないだけだ”

似たようなことは、たとえば引き寄せの法則を実践している人たちの間で有名なバシャールやエイブラハムでも語られている。

Youtubeにアップされている彼らのトークセッションを見ると、“一つは全体で、全体は一つ (One is all, all is one)”とか、“みんな一つにつながっている”というフレーズがいたるところに散らばっている。

(興味がある人は「バシャール」とか「エイブラハム ヒックス」というキーワードで動画を検索してみよう。)

古代インドのウパニシアッド哲学の梵我一如 (ぼんがいちにょ) もおなじ考え方だろう。

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。 (Wikipedia)

そういえば、聖書にもこんな言葉がある。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

ひょっとしたら、聖書も僕たちひとりひとりが神を通じてつながっているということを伝えようとしているのかもしれない。(そういう解釈があっているかわからないけれど)。

 

信じる、信じないは人それぞれだし、信じないならしょうがないけれど、ひょっとしたら、僕たちは上で書いたとおり「一人一人は別々の存在のように見えるが、見えない部分でつながっている」存在なのかもしれない。

 

たとえば、木を考えてみよう。

木は、四方八方に枝を広げ、葉っぱをつけている。

それぞれの葉っぱからみたら、隣の葉っぱは全く別の存在に思えるだろう。

 

でも、それらの葉っぱは幹でつながっている。

 

もしくは、自分の身体を考えてみよう。

僕たちの胴体からは手や足が出ていて、顔には目や鼻や口や眉毛がある。

右手からみたら左手は全く別の存在だろうし、眉毛からみたら鼻は全く別の存在に思うだろう。

でも、どれも自分の体の一部だ。

 

葉っぱや身体の例と同じように、僕たちは見えないところでつながっている。

このように考えると、次の事に気が付くと思う。

 

自殺は自分の一部を失う悲しみだ

僕たちは見えないところでつながっている。別々の存在のように思える他人だって、自分自身の一部なのだ。

 

そう考えると分かると思うけれど、誰かが自殺するってことは、自分の一部を見捨てて、失うことなのだ。

 

考えてみてほしい。

 

だれが、自分の右手が怪我をしたとき、「こんな手なんかいらない」といって切り捨ててしまうだろうか。

だれが、「右の耳があるから左の耳はいらない」といって、ちょっと聞こえにくくなった左の耳を切り捨ててしまうだろうか。

 

たとえ、左手から見たら右手は全く別の存在だし、左耳から見たら右耳は全く別存在だとしても、それぞれ、自分が大切にしている身体の一部だ。

たとえ怪我や病気で機能を果たせなくなっても、治癒するよう手を尽くすし、命に別状がない限り、自分自身の一部として大切に残しておきたいと思うし、実際にそうするだろう。

 

それと同じだ。

 

僕たちは、そのことを直感で気づいているのかもしれない。

だから、誰かが「死にたい」と言うと、必死になって止めようとする。

 

自殺しようとしているその人は、自分とは別の存在のように見えても、自分の大切な一部なのだ。

 

そういうことを僕たちは無意識のうちに認識しているのだろう。

 

だから、ある人が自殺したいと言っているのを聞くと動揺するし、できることなら何とか思いとどまらせたいと思う。

 

おわりに - ただ生きていればそれでいい

ここまで読んだら少し気が付いたかもしれないけれど、

何かに失敗しても、特技がなくても、ひきこもりでも、他人のようにすぐれている部分がないと感じても(実際にはそんなことはぜったいにないけれど)、お金が無くても、恋人と別れても、誰からも愛されていないと思っても、自分には何もないと感じても、

「ただ生きているだけで、僕たちは価値がある」ということは忘れないほうがいい。

 

たとえ、右手を怪我して使えなくなっても、その手を「いらないから」と言って切り捨ててしまわないのと同様、

たとえ、自分なんかいてもしょうがないとか、自分という存在は必要ないとか思っても、存在しているだけでそれだけで価値があるのだ。

 

たとえ、いま直面している現実が死にたいほど辛くても、どうか思い出してほしい。

 

僕たちはみんなつながっている。僕たちは大きな存在の一部だ。

 

目に見えないレベルで、僕たちは互いに相手を尊重し、大切に思っている。(嫌がらせをしてくるあいつだって、根っこの部分ではつながっているのだ!)

 

だから、死ぬ必要なんてない。ただ存在するだけでいい。

君が存在しているだけで、僕たちはみな深いレベルで喜んでいるのだ。

 

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