生きがいがないのは結構しんどい。
僕も経験したけれど、身近な知り合いが生きがいをもってキラキラ光る人生を歩んでいるところで、自分には生きがいがなく、毎日同じような時間をただ鬱々と過ごしていると、自分の存在意義を疑いたくなってくる。
「生きがい」は、教育の場や自己啓発系の本で精神論的な面から語られることが多い。だけど、人によってはうつ病を引き起こす可能性だってあるから、生きがいがなくて悩んでいると感じている状態は、決して軽々しく見過ごすことができない問題だ。
はじめに
はじめににも書いたけれど、僕は事業に失敗して生きがいを失くし、生気を失ったような年月を過ごしていたことがある。そのころ僕は、自分の人生の目的は何かとか、自分は何故生きているのか、毎日考えていた。そして僕はある本(このブログでおなじみの『ザ・シークレット』ロンダ・バーン(著))と出会って、人生の目的だと思うものを見つけた。それは独りよがりなものかもしれないけれど、その考え方を得てから、僕は生きがいに悩むことがなくなって、すごく生きやすくなった。
この記事ではその考え方を紹介しようと思う。もし生きがいがなくてとても悩んでいるなら、ぜひ読んでみて欲しい。
ただ、この記事には少しスピリチュアルな内容が含まれているから、この記事に書かれていることが受け入れられない人もいると思う。そういう人は、「こういう考え方もある」くらいに考えて、他の本やブログを読んで、自分に合った方法で、生きがいについて向き合ってほしい。
また、この記事に書いてある内容がすぐによく理解できない人も多いと思う。そういう人は、時間がたつにつれてわかるようになることもあるから、焦らず「いずれわかる時がくるだろう」というくらいにのんびり構えてほしい。(実のことを言うと、僕もこういう考え方に慣れるのに二年くらいかかった)
「生きがい」がないと感じる原因
生きがいがないと感じてしまう原因はいくつもあると思うけれど、おそらく多くの人を悩ましている原因は、「生きているからには、何かを成し遂げたい」「誰かの役にたちたい」「社会から必要とされたい」といった欲求に基づくものではないだろうか。
例えば、次のケースに思い当たる節がある人は多いだろう。
- 子供を育てることが生きがいだったけれど、子供が大きくなってしまったために、生きがいを失ってしまった。
- 仕事が生きがいだったけれど、会社を退職したために、生きがいを失ってしまった。
- 受験や就職に失敗して、人生に生きがいを見いだせなくなってしまった。
- 特に不満のない人生を順調に歩んできたけれど、これといったことをしたことがなく、同じような単調な日々がただ流れるだけで、生きがいがよくわからない。
生きがいをもって生きることは素晴らしいことだと思うし、僕自身、生きがいを失って自分の人生に何の希望も見いだせなくなったとき、目を輝かせながら生きがいを持って生きている人を見ると、うらやましく思ったりもした。
だけど、生きがいがないからといって、生きがいを無理に求めることなんて必要ない。
なぜなら、自分が生きがいがない人生を歩んでいるからといって、自分の人生は充実していないとか、失敗だとか、ましてや自分は不幸だとか、決してそういえないからだ。
いわゆる「生きがい」はなくてもいい
「生きがい」がないと悩んでしまっている人の中には、生きていくうえで「生きがい」が必要だとか、「生きがい」を持つべきだと考えてしまっている人がいる。これはおそらく、学校や家庭での教育の影響とか、自己啓発本の影響だろう。
だけど、生きがいがないと悩む前に考えてみよう。
そもそも、なぜ「生きがい」が必要なのか?
どうして「生きがい」を持つべきなのか?
「生きがい」があれば、幸せなのか?
「生きがい」があれば、よい人生を歩めたことになるのか?
そもそも、人生の目的は何なのか?
この章のタイトルの通り、僕は「生きがい」なんて必要がないと思っている。そのことを説明する前に、まずは人生の目的が何なのか考えてみよう。ちょっと遠回りになってしまうけれど、人生の目的が分からないと、生きがいが必要なのかどうかわからない。
とはいえ、「人生の目的」とか「人生とはなにか」とか「人はなぜ生きるのか」という問いは、哲学の難問だ。これまでに多くの人がいろいろ考えているけれど、正解があるのかないのか、結局のところなんだかよくわからない。
過去の偉大な哲学者たちが考え抜いても普遍的な答えがあるのかないのかすらわからないんだから、僕は、僕たちが僕たちなりの軸をもって、自分なりに、「人生とは何か」という答えを持てばいいと思う。
そして、おそらく、その軸の一つになりうるのが、これから書く内容だ。
冒頭にも書いた通り、これはちょっとスピリチュアルな内容だから、この内容が受け入れられない人もいると思う。そんな人は「こんなことをいう人もいるんだな」くらいに捉えてくれればいい。
(でも、僕はこの考え方をいつも頭の片隅に置くようにしてから「生きがい」について悩むことがなくなって、格段に生きやすくなった。だから、もしいま「生きがい」について悩んでいるなら、この記事の内容が受け入れられなくて途中で投げ出したくなっても、その衝動を抑えてぜひ最後まで読んでほしい。)
さて、ここから本題だ。
僕が人生の坂を転がり落ちてどん底にいたとき、僕は「自分は何のために生きているんだろう」と毎日悶々と考えていた。
その時に出会ったのが、『ザ・シークレット』という本に書かれていた次の言葉だ。ちょっとはっとさせられた言葉なので、少し紹介させてほしい。(ちなみに、この『ザ・シークレット』という本は、僕にとって、自殺を思いとどまらせてくれた命の恩人(恩本?)本だ。この本に出合わなかったら、僕は死んでいたかもしれない。詳しくは、僕がおすすめする2冊の本 (その1) - 『ザ・シークレット』ロンダ・バーン(著))
「世界を変えたり、あなたの周りの人たちを変えることがあなたの仕事ではありません (P.235)」
「今、幸せになってください。今、よい気持ちになって下さい。あなたがしなければならないことはそれだけです。(P.286)」
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要は、人生の目的は、何かを成し遂げることとか、誰かのために自分を尽くすこととかじゃなくて、「楽しむこと」だとこの本は言っているんだけど、このことをよく理解するためには、『ザ・シークレット』が僕たちの存在をどのように捉えているかを知らなければならない。
端的にいうと、それはすなわち「一つは全体で、全体は一つ (one is all, all is one)」という考え方だ。
一つは全体で、全体は一つ (one is all, all is one)
僕が知らないだけで、世界のあちこちにも似たような考えがあるかもしれないけれど、「一つは全体で、全体は一つ (one is all, all is one)」は、若干の言葉の違いはあれ、アメリカのスピリチュアル系でよく語られている。(僕はこれを何年も前にYouTubeでバシャールのセッションを観て初めて知った。残念ながら最近はその動画がほとんど削除されてしまった)
これは簡単にいうと、
僕たちは一人ひとり別の存在に見えるけれど、見えない部分ではみんな繋がっていて、一つの大きな生命体を作り上げている
という考え方だ。
隣のあいつも、かわいいあの子も、根っこの部分では自分と繋がっていて、遠くから全体を見渡せば、僕たちは一つの存在ということだ。
このことを木を例にとって説明すると、たとえば、木に生い茂っているある一枚の葉っぱから別の葉っぱをみると、その別の葉っぱは自分とは別の存在に見えるだろう。だけど、それぞれの葉っぱは枝や幹で繋がっていて、葉っぱは、木を構成する一部に過ぎない。
それと同じで、
僕たちはみんな巨大な生命体の一部であり、一見すると別の存在のように見える他人も、実は自分と繋がっている
キラキラ輝く人生を送っているあの人も、鬱々とした人生を過ごしている自分も、巨大な生命体の一部であり、根っこの部分では繋がっているのだ。
そう考えると、なぜ『ザ・シークレット』がなぜ「人生の目的は、楽しむこと」と言っているのか理解できると思う。
僕たちの生命体は、僕たちを通じて、いろいろなことを経験している。
僕自身が経験したことも、他の人が経験ししたことも、それぞれかけがえのない経験として生命体に蓄積されていく。
事業の成功とかノーベル賞級の発見とか、他の人が達成した華々しい経験も、ゲームをクリアしたときの高揚感とか散歩中に見かけた花を美しいと感じた自分の経験も、もしくは、恋人に振られた苦い経験も、すべて生命体に記憶され、生命体はそれによってどんどん大きくなり、そして豊かになっていく。
勘のいい人ならもうなんとなくわかったかもしれないけど、そう、僕たちは生命体の一員として、様々なことを経験するために生きているのだ。
大きな経験も、取るに足らないような小さな経験も、いい経験も、苦い経験も関係ない。
どのような経験も、すべて僕たちがこの世で生きているからこそ経験できる貴重なものであり、生命体を大きく豊かにする糧なのだ。
(もっとも、『ザ・シークレット』は「楽しいことをしよう」とは言っているけれど、「辛い経験も貴重だよ」とまでは言っていない。おそらく、そこまで書かなかった理由があるのだと思う。でも、なにも「楽しむこと」だけが人生じゃないから安心しよう。)
自分らしい人生を自分らしく生きる
大切なのは、自分らしい人生を自分らしく生きることだ。「今」という瞬間に、自分らしくいることだ。
周りの人が生きがいをもってキラキラと輝く日常を過ごしている一方で、自分は鬱々とパッとしない人生を歩んでいるとしたら、「自分も何か生きがいをもって、イキイキと過ごしたい」と思うかもしれない。
だけど、生きがいがないからといって、不幸なわけではない。
幸せか不幸かは自分が決めることであって、生きがいがない状態を自分が不幸だと思えば不幸だし、別に不幸じゃないと思えば不幸じゃない。
また、生きがいがないからと言って、自分の人生が失敗だったかというと、まったくそんなことはない。
僕たちがどんな人生を歩んでいようと、どんなことを経験しようと、それは僕たち、そして僕たちの生命体にとっては貴重な経験だ。大きなことも、ちっぽけなことも、嬉しいことも、悲しいことも、たとえ生きがいがないと感じていても、僕たちは日々いろいろな経験をしている。それで十分なのだ。なぜなら、これらは全て僕たちが生きているからこそ経験できたことであり、僕たち一人ひとりが違う経験をしているからこそ、僕たちの生命体はどんどん豊かに大きくなっていくからだ。
生命体レベルで考えれば、どんな人生でも失敗した人生なんて有り得ない。
だから、生きがいがあってもなくても、大切なのは、自分の人生を歩むことなのだ。
自分らしい人生を、そして、一秒一秒を自分らしく過ごすこと。
僕たちが目指すべきものは、何かを成し遂げることでも、誰かのために役に立とうとすることでもなく、自分が自分らしく今を生きることなのだ。
だから、生きがいなんてあってもなくてもいい。
自分らしく一瞬一瞬を生きることができれば、人生は成功したようなものだ。
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おわりに
生きがいをもっていないと、生きている価値がないとか、人生を無駄にしているとか感じてしまうことがあるかもしれない。
だけど、僕たちが人生で目指すべきことは、自分が自分らしく今を生きることだ。
それがわかれば、「生きがい」は人生にとって必要なものではないのがわかるだろう。
生きがいを探すのはもうやめていい。
そして、今この瞬間から、自分らしく今を生きることに専念しよう。
人生はそれで十分だし、それができれば、それだけで人生成功したようなもんだ。
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